「35年」束縛を当たり前と思うのってどうなの?

誰が決めたのか知りませんが、

「結婚したら家を買う」

の刷り込みを、いまだに実践するカップルは思いのほか多いようですね。

 

自分たちが買いたいから「家を買う」

のではなく、

「買わないといけない」

と思い込んでいるからなのか、

結婚とセットにするのが根強い考え方のようです。

 

「そうするものだから」の刷り込みは恐ろしいですね。

 

あるもので間に合わせたらいいじゃないのかと思うのですが、

環境を変える・立場が変わるとなると

なんでも「新しいもの」に変えたくなるのでしょうか。

 

盛大なムダをするんだな、

できるんだからスゴイなとは思いますね。

余計なお世話ですけれども。

 

35年借金って、意味わかってますか?

いつだったか飲みに行っていた時のことです。

 

最近ご結婚されたある知人のことを、

その人を知る人たちがたむろってあれこれ勝手な話をしていたのを

チラ聞きしてしまったセリフは以下です。

 

「〇〇はこれから家を建てるんだってね。

〇〇も35年ローンか~」

 

このセリフは、

他人だから無責任に、しかも簡単に言えてしまう

というのもあるでしょうね。

 

でも、その言葉の重みを少しも考えていないように聞こえたことに、

他人事ながらわたしは恐ろしくなりましたね。

 

この人たちは特に、

実際どうか知りませんがおそらくウワサの本人も、

借金背負うのなんてごく当たり前のこと

結婚したのならなおのこと

とでも思っているとしか感じられなかったのです。

 

結婚なんてしたらなお気をつけなくちゃならないのは、

「借金しないこと」

の方だと思うのですが、違うのか?


確かに家を買うとなると現金で、というのは

なかなかムリがある話なのは当たり前のことですが。

 

でもマジメに勤めたところで給料も上がらないような時代に、

そんな借金背負ってこれからどうしようというのでしょうね。

 

先に出てきた人たちは、

おそらくわたしと同年代と言ってもいい年代の人たちでした。

 

なので自分たちの親以上の世代でようやく

「それが普通」

となっていた価値観や考え方を、

そのまま後生大事に持ち続けていることになるのでしょう。

 

よほど余裕があるのか、

周りを見ていないのか。

 

見ていたところで

「周りがやっているんだから自分もやる」

「周りができているんだから自分もできるはず」

と、無根拠に思っているのでしょうね。

 

周りを基準にしたりアテにしたところで、

自分でその選択をしたら自分で算段しないとどうにもなりませんよ

と、わかりそうなものなんですけれどもね・・・。

 

f:id:rioplus:20161008174043p:plainかわいいですがこんなわかりやすいイラストまであるというのに。


ちなみにわたしは借金が大嫌いです。

 

笑う人には笑われるかもしれませんが、

買い物をする時はほぼ現金でします。

 

食品以外の買い物はほぼネットでですが、

代引きができる場合は迷わずそれを選びます。

 

わたしのような人間にはありがたいのですが、

手数料を取らないところなんていくらもありますからね。

商品をそういうところから選べば大して足が出ませんね。

 

カード決済しかできない場合は、

自分でひと月の購入の限度額を決めていて、

それを越えないようにしています。

 

分際に合わない買い物はしない

と決めて実践すると、

周りになんて振り回されなくなるんですけれどもね。

 

 

【参考】

「35年」を援助ありきで組む人たちの話付き記事はこちらへ。

⇒ 「35年」を援助してもらうために同居する人々

 

「どうでも良くなった」は新しい変化のタイミングです

近ごろ本気でどうでも良くなった、

「洗脳解除」の四文字です。

 

正直に白状いたしますと

このブログを立ち上げの際に、

一応自分の個性を表わそうと思って

足りない頭を絞った言葉なのですけれどもね。

 

でもそれこそ個性と自覚していますが、

自分の中で終了したことに

ぐずぐずとこだわっていることが

性分としてできない性質

なのです。


「宗教」の「洗脳」を「解除した」で

なんらかの期待をしてこちらへ来てくださったかたにとっては、

特に得るものもなければ、

手助けのきっかけになることすらほぼ書いていないため、

有益なブログとはとても言えないものとなっております。

 

ぐずぐずとこだわったり、不満をぶちまけたいかたは、

どうぞ余所のブログなりへ行かれるのをお勧めいたします。

 

不満と愚痴を言い続けるだけで、人生終了させたいのですか?

他人様の話によると、

洗脳の解除のレベルで言ったら

人間の本能にまで食い込んでくる「中毒」をやり込めた、

離脱症状の克服の方が難易度が高いらしいのです。

 

やった人間本人は、

それをどうにかすることに必死という意識と記憶しか残っていないため、

「抜け出した」

「成功した」

という実感がいつまでもイマイチなままなのです。

 

それだけ自分の生活が「普通」で「当たり前」の日常になったからなので、

今となっては余計に、

「難易度の高い」ハードルを越えた実感が薄いですね。

 

 

話が逸れました。

 

現在のわたしのリアルな生活においては、

「親の宗教が当たり前に子供の宗教」として押し付けられる団体さんと、

完全に無縁で生きています。

 

あの団体さんの信者は顔付きがなんとも独特なので、

外で運悪く見かけると

少し前まではそれと判る人の見分けがついたほどなのですが、

今ではまったく判らなくなりました。

 

とても良いことだと思っています。

 

そんな自分が不快になるものの見分けがついたところで、

役に立つことなんて何も実生活の上にはありませんのでね。


自分の身内で洗脳がきまっている人たちとも、

絶縁状態でいるためとても快適に過ごしています。

 

めんどくさくて仕方ないですからね、

話が通じない人に関わられると。

 

f:id:rioplus:20161008155215p:plain

 

本人たちに聞いたことはありませんが

自分たちが(おそらく)疑問に思っていることに

きっちりかたをつけようとか直面しようとも思わずに、

ただ人生の大切な時間を食いつぶしている人たちとは

物理的な縁だけでも切った方が絶対に自分のためだと思いますね。

 

メンタル的に縁が切れてしまうと、

「どうでも良くなった」

と自分の口から無意識に飛び出してくると思います。


わたしの場合は決して特殊ではないと思うのですが、

親やその他の身内に対して大した思い入れがないどころか

むしろ煩わしいと思っていたくらいなので、

「どうでも良くなった」に達するまであまり苦労をしなかったようです。

 

相手方からしても、

わたしが自分で決めてやったことに対して

理解なんてしようとも思わないでしょうし、

そもそもできないと思いますのでね。

 

「縁切り」が完了したら、

自分の幸せを追及することだけに人生費やした方が

はるかに価値的だと思います。

 

生まれた直後から精神的な虐待を子供に加えておいて、

その自覚がない親は放っておくのが一番だと思います。

(プラスその他の身内も)

 

わたしの持論ですが

自覚がないのが一番性質が悪い

ですからね。

 

 

「身内だから」と情にほだされると、

自分の足元を救われると思います。

 

説得しようとしてもムダのひと言ですからね。

 

抜け出した側が平然と幸せに暮らしていたら、

それが洗脳にまだ浸っている人たちへの一番の見本になると思いますので、

放っておいた方がお互いのためになるというものです。

 

あとは抜け出すなり、そのまま人生捧げるなり、

勝手に自分で選んでいただきましょう。

 

 

※参考 今さらですが「解除」して良かったこと【まとめ】付き記事は

こちらへ。 ⇒ http://chokkan-dokoro.com/kaijo.matome.html

わりと深刻、「間違ったらいけない」症候群

わたしの現在の身の周りにいる、

自分よりひと回りほど若い人に接していると

「間違ったらいけない」

と、割と深刻に考えている人が多いようです。

 

それはわたしの周りにいるごく一部の人たちだけなのか、

一般的になのかは知りません。

 

仕方のないことなのかもしれませんが、

思いのほか「重症」と言っても良いくらいですね。

 

学校教育の「失敗を許さない」害悪が、

かなり色濃く残っている感じがしたからです。

 

f:id:rioplus:20161007221451p:plain

 

今の勤め先にいるある若者はまさに重症だと思いますね。

仕事をしていてふた言目には、

「失敗した」

「うまくできなかった」

「(自分なんて)全然ダメだ」※本人談ママです

などと、

まだ仕事を覚える段階であってもそう言って決めつけ、

自分をムダに責めるわけです。

 

間違えてはいけないと思い込んで仕事をしようとしているため、

余計な力が入るのでしょうね。

 

もともと緊張しているところにさらに緊張が重なって、

「できなかった」

に簡単に自己完結してしまって自分でへこんでいるわけです。

 

「詰め込み型」で教えるのは学校だけじゃない

ところで仕事を始めた人に対して、

「詰め込む」形で物を教えている「つもり」の人がいます。

 

結論から言うと、そういう人は教えるのがお上手とは言えませんね。

 

というより、「教えられない」と言ってしまった方が近い気がします。

 

挙句には他人がわざわざ言わなくても、

「自分は教えるのがヘタだから伝わっているか不安」

だとか

わけのわからない自己弁護を平気でする人までいるわけです。

 

その自覚があるのはまだマシで、

自分がとりあえず「説明している」と思い込んでいることが

相手にまるで伝わっていない現実を把握できない

という致命的な人は、もうどうにもなりません。

 

それで「説明した」はずのことができないと、

軽く青筋立てていたりするわけで。

 

そういう人は教える立場に回らないで、

自分の作業だけやっていたらいいのではないか

と思ったりするのです。

 

まぁ、その前にです。

会社は実質学校の延長とはいえ、

学校のように手取り足取り仕事を教えるわけではないところ

なのが本来ですので、

「そこまで面倒を見る義理はない」

と思っているのであれば

適当にでも雑にでもなって当たり前なのでしょう。

 

詰め込み型でものを「教えて」いるつもりの人は、

仕事をさせるのではなく作業をさせる(のが優先)

と思っているのだと思いますね。

 

そこに理由やある程度の理屈は存在せず、

「決められたことだからそうやって」

「そうやっておけば間違いないから」

で覚えさせるわけです。

 

学校で教わって勉強してきたままの形、

まさにそのものですね。

 

そういう人に「教わって」しまうと、

いわゆるイレギュラーにまるで対応できなくなる

思考停止人間が新たにでき上がるでしょうね。

 

仕事を一生懸命「覚えよう」との意欲が見て取れる人と、

そうでない人間を見分ける目も持っていないのか、

「今までと同じようにやっていれば、

できるようにはなる」はず

と踏んでいるんだろうな~と

傍で見ていて本当によくわかります。

 

できるようになるのを期待するのは仕事ではなく、

あくまで作業なのでしょうね。

しかも表面上の。

 

期待や優先するポイントがずれている気がするのですが、

と言いたくなるのですけれどもね。

 

わたしは言える立場におりませんので、

黙って見ているだけですが。(笑)

 

会社組織でぺーぺーに発言権ありませんが、

見て何を思ったり感じようが、それは自由ですのでね。

 

「教えられない人」は「初心者の頃に戻れない人」と思います

わたしが思うに「教えられない」人というのは、

「自分が初心者だった頃に戻れない人」の異名な気がしますね。

 

できないでもどかしいのは教えている側も確かにありますが、

本当にそう思っているのは、やろうとしている本人側であって。

 

と、思うのです。

 

できないこと、わからないことを聞き出すくらいのコミュ力ないのか

とわたしは思ってしまいますが、

本人に答えてもらうための質問をすりゃいいだけの話だと思うのですね。


ちなみにわたしは、

理屈や理由を明確にしないと仕事を覚えられない性質です。

 

必要に迫られて他人様に仕事を教える時も、

自分がやってきたようにしか教えられないため同じようにします。

 

理屈がわかってやっていることですから

他人様に教えるのも楽になりますし、

教えるのは割と得意だとも思っています。

 


冒頭の「間違えたらいけない」症を発している若者は、

「間違えるのは3回まで」

と誰ルールなのかわからないことを言っていて、

わたしは吹き笑いしてしまったのですが。

 

間違ったらいけないって誰か言った人間がいるのか、

自分でわからないことやどうしても苦手なことはなんなのか、

何をどこまでわかっているのか

など、答えてもらうための質問を少ししてみただけで、

ぽんぽん答えが返ってきたわけですね。

 

総括すると、

「とりあえずやらせてみてダメだったので基本から」

になっていたらしいのです。

 

端折るポイントを完全に間違ったので、

周りも本人も二度手間を踏んだということなのでしょう。

 

詰め込み型で仕事を覚えさせる弊害が

てきめんに表れたかっこうになったのでしょうね。

 


仕事の習得は確かに、

自助努力にかかるところが大きいとは思います。

 

組織で仕事ができるようになって欲しかったら、

基礎をきちんと作らせないといけないと思うのは

古い考え方なのでしょうかね。

 

また、長く続けてもらいたいと思ったら、

最初が肝心だと思うのですが。

 

会社で一生懸命仕事をしようと意気込んでいる若者って、

今どきいろんな意味で珍しいと思うのですけれども。

 

「無休自慢」ってどうなのさ

コンビニでレジ待ちしていた時に、

わたしの個人的な感覚からでは

おかしな人を見かけました。

 

レジを担当してくれた店員さんに向かって、

「最近土日関係なく仕事で休みなしだよ~」

となぜか自慢げに話していたのです。

 

自慢するかのような声色で、

といったほうが近い感じでしたが。

 

休みなしなのに得意になる。

わたしにはさっぱり理解のできない人でした。

 

パッと見50代くらいでしたでしょうか、

仕事に人生費やすのがある意味当たり前

とでも思っている一般的な世代、とくくっていいのでしょうかね。

 

おそらくそれが当たり前過ぎて、

そういった働き方が素晴らしいことだとご自分では思っていて

そういう自分は他人様には羨望の目で見られると、

盛大な勘違いをしていることにも気づかないのでしょう。

 

単純に、

休みがない現実に疑問を持たないの?

とわたしはまったく関係のない立場ですが思ってしまいました。

 

マジメはほどほどが肝要と思うのですね

「無休自慢」とは少し異なりますが、

わたしの勤め先にはこんな人がいます。

どこかの時代錯誤なコピーにありましたが、

「出勤することに意義がある」

と、本心から思っているんじゃないのかという人です。

【参考】【バブルか!】「会社は出勤することに意義がある」 眠気覚ましドリンクの前時代的すぎる広告コピーが物議 | キャリコネニュース

 

気の毒と言えば気の毒なことなのですが、

万年風邪とおそらく言ってもいいくらい

常に体調不良でおいでなのです。

 

付き合いが短いのでそう断定はできないのですけれど。

 

気にかけているわけでは決してないのですが、

うつされても迷惑なので

とりあえず常識的なご挨拶代わりで体調のことを

気が向いた時に伺ってみると、

「自己管理ができていなくて」

とご自分でカンタンに認めてしまうのです。

 

そう自覚があるなら、

まずその不調をどうにかするのが先だと思うのですが、

「なにがなんでも出勤だけは怠らない」のが

ある意味正義

だと思い込んでいるのでしょうね。

 

周りの迷惑をまず第一にでなくても構いませんから、

少しは考えていただきたいと思うのですね。

 

f:id:rioplus:20161007104342p:plain


周りへの気遣いや気配りができる。

それが当たり前の「社会人」だと思うのですが、
違うのでしょうか。

 

欠勤したり早退すると自分の評価が下がる

とでも真剣に思い込んでしまっているのか、

マジメな人って大変だなと思いますね。

 

余談ですが

わたしも過去に(失礼します、)くそマジメでしたから

気持ちはわからなくはないのですが。

 

マジメでいたところで得することは少ないと判断したので、

それを境にマジメを捨ててしまいました。

 

どうも融通の利かない人というのは

自分に負荷をかけることで、

「仕事をしている」自己満足に浸りたいのだろうなと

はた目から見物しています。

 

今日もまた会社に行くのは、会社に行くべきだからだ、今日もまた仕事が

虚しくならないのは、自分の仕事は虚しいはずがないからだ。今日もまた

家に帰るのは、家に帰るべきだからだ。

(中略)「くそ真面目な精神」は自分自身に向かって「なぜ今日も会社に

行くのか?なぜ今日も家に帰るのか?」と問うことをやめた人である。

なぜ、彼(女)は問わないのか?勇気がないからである。問うてしまう

と、自分が崩れるかもしれないから、そうすると社会で生きていけないか

もしれないから、とにかくそっちの方向に滑っていかないように「気を逸

らせること」が肝心なのだ。

善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)

 

結局、自分の人生のムダ使い

冒頭の「無休自慢」の男性の話に戻りますが、

休みがない状態を触れ回るって、

基本的に恥ずかしいことだと思うのですね。

 

それだけ自分は仕事の処理能力が低い、

と言っているようにもなるからですね。

 

休みを返上しなければ仕事が終わらせられない

と言っていることと同じではないの?

とわたしなんぞは思ってしまいます。

 

他にも理由はもちろんあるのでしょうが、

その男性の、自虐的なのに得意気な声色からは、

「休みなく働くのが正義」

としかどうしても受け取れなかったわけです。

 

「会社には自分がいないと回らない」

とでも思っているのか、

そういう考えはその人の責任感からではない気がするのですね。

 

おそらく勝手に

「会社が自分を必要としている」

と勘違いしている人に限って、こういう言動をするんじゃないのかな

とわたしなんぞは思ってしまうわけです。

 

しなくてもいい作業をわざわざ増やしていたりで、

仕事をしている実感が欲しいのかな、などと。

 

そういう人はどこの会社にでもおいでになりますのでね。

ご自身の貴重な時間のムダ使いご愁傷様です、

と思います。

 

 

善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)

「子供のため」は「親自身のため」、の間違いじゃない?

こんな話を聞きました。

 

お子さんの受験について、

「子供のために親がしっかり将来を見据えた進学先を決めてあげる」

という目標を持つという人がいるのだそうです。

 

わたしは又聞きのためそのかた本人がどういう人なのか知りません

 

でも、言わせていただくと

「それが子供にとって、

余計なお世話だってどうしてわからないのかな~」

ということですね。

 

その人がなぜそういう世話を焼くかというと、

そのお子さんがまだ

「自分の将来をしっかり決められるような年じゃないから」

という理由で、

親が代わりにそのレールを敷いて「あげる」そうなのです。

 

なので、わたしはまるで赤の他人ですけれども、

それが余計なお世話だって思ってしまったわけです。

 

親の先回りの行動は子供の意思を「認めない」ことです。

その親御さん本人が、

ご自分の今までの人生にどうしても納得が行かず、

「受験し直して人生やり直したい」

などと思うのは自発的な意欲だと思うのです。

 

なんの問題もありませんね。

自分で疑問に思って自分で決めて自分で行う。

強制されて行動することと比べて達成できる可能性は高いでしょう。

 

学校に行き直したところで

時間とお金のさらなるムダ遣い以外の何者でもないのですが、

自分で決めて実行する分には問題はないと思うわけです。

 

でも、

親は子供になんでも口出しして構わないと思っていること自体に、

なんとも違和感を覚えるのです。

 

そういう親にその意識はおそらくないでしょうけれどもね。

 


先の人のように、自分の子が

「まだ自分の将来を決められるような年ではない」

決めつけたうえで、

「親がその代わりをしてあげる」

という考え方自体、おこがましいと思うのですね。

 

百歩譲ってまだ「頼りない」年代だからという理由で、

自分の将来をきちんと考えられるように親も一緒に考えるのが、

本来自然な気がするのですが、違うのでしょうか。

 

「子供には決められないから親が代行」。

そんなことをやったら、一生その子供さんは、

親の段取りや指示待ちしかできない人間になってしまう可能性が

とても高くなると思いますね。

 

こういう場合でも子離れできない人間によって、

親離れできない予備軍が量産されていくのでしょう。

 

ちなみにそのお子さんの年のころは、

「義務教育」の年代だそうです。

 

お子さんの進学に関する話なはずなのに、

本人不在で親が先回りして大学の選定をしていたそうなのですね。

 

「学費が安いからという理由だけで潰しが利かない大学に入れたら、

そこで人生詰んでしまう」

という話で、ご夫婦のご主人が納得させられてしまったそうです。

 

ここでもクチバシを挟ませていただくと、

大学なんぞに行かせるお金があるくらいなら、

今のうちにもっと違うことで有効活用してあげた方が

よほどお子さんのためになると思います。

個人的にはですが。

 

親の意思を子供に代行させている意識、ありますか?

親がなぜ「子供のため」といって先回りするのかを掘り下げてみると、

「失敗させないように」

以外、理由はないでしょうね。

 

その「子供のため」というのも、

わたしから言わせてもらうと単なる名目にしか思えないのですけれどもね。

 

親のエゴ、の間違いでしょう。

 

f:id:rioplus:20161003100740j:plain

 

日本では失敗が「許されない」雰囲気が

いたる所で蔓延している気がします。

 

それは単に学校教育の洗脳のなせるわざですので、

本来おかしなことだと思うのです。

 

初等教育でおかしな価値観を叩き込まれたまま、

それが正しいと思って育ってしまいますから、

抜け出すには大変な努力が要る場合があるわけですね。

 

要は親もその洗脳から抜け出せずに親をやっているから、

自分が正しいと信じたいことを、子供に疑問も持たずに押し付けるのでしょう。

 

そう、

「信じていること」ではなく、信じたいことが実際に近い気がしますね。

 

親や学校の先生が、
反対するほうを選んでおけば、
たいてい間違いない。
千田琢哉

 

なのでレールを敷いてあげるというのは、

親の責任感から生まれた考え方や行動ではない気がするのです。

 

親御さん本人は否定するでしょうけれども、

「自分の言うことに間違いはないのだから言うことを聞かせたい」

意識がベースにある気がしてならないのですね。

 

それは、子供をコントロールするという以外、なんというのでしょうね。

 

先回りで子供を支配している自覚が薄いか、

その自覚自体なく行動しているようにしか聞こえないわけです。

 

自覚がないのが一番性質が悪い

ですのでね。


子供に期待をかけるのは結構なことです。

でも問題だと思うのは、

子供さん自身が本当にやりたいと思っていることかどうかを、

きちんと考えたうえでの行動なのでしょうかということですね。

 

親子で同じ方向を向いているなら何の問題もありませんが、

期待をかけるといって、

親が自分の意思を子供に代行させようとしているのではないでしょうか?

 

親の意思から出たものであれば、

親自らが勝手にやったらいい

と思うのは、おそらくわたしだけではないはずですが。

 

親がやらせたくても

子供がやりたくなかったら、それは無理ですよね。

でも子どもがやりたいなら、そのままで最高です。 

イチロー